昭和40年04月22日  朝の御理解



 「今朝方御夢を頂いておった。御夢というのは、ご本部、教務所、親教会、隣接教会。さまざまな鏡が人の助かり場と、難儀な氏子の取次ぎ助けられる、この場としての、教場が、いうなら、天地の親神様の御悲願が、ここ椛目に、成就するということのために、そうしたさまざまな機関、または隣接なら隣接関係の教会や言うにおよばず、様々な問題が解決のおかげにならなければならない。
 そういう一切のところが、まぁ、ひとつの立て前のような感じなんですね。そして、もう本当に一切にですね、例えばスイッチを一つ押さえば、部屋中の電気がぱっと点くような、仕掛けがしてあるように、この一切にですね、ぱっと電気が灯ったら、こちらのもの。しかも、その電気はついたけれども、まぁ、明るさというのが、まぁ、五燭光ぐらいな明るさなんですね。全部に、その一緒に灯る。
 あの、お土地の問題が色々しているときに、神様から、例えば同じ桜の花でも、三分咲きのところもあれば五分咲きの所もある。日当たりの良いところは、もう満開といったようなところもある。それはなしにね、一緒に、一緒に咲く域があると神様が仰っておられたもんね。もう、今度のことはもう、土地もそれが決った。泥盛りの準備も、さぁ、明日からというとき、親教会の親先生の気持ちの上にですたい、ね。
 様々なおかげを頂いたというような、もう、何もかも一緒に、ぽっとこう、花が咲いたような感じでございましたでしょうが。そういう意味合いにおいて、例えばなら、本当の意味で、椛目のお広前で、人が取り次ぎ助けられる。しかも難儀な氏子がより沢山の難儀な氏子が、取次ぎ助けられるためには只今も申しますように、ね。本部、御本部は言うにおよばず、ね。教務所関係、隣接教会関係、親教会はなおさら。ね。
 それだけではない、様々なそれに関連した所がです、ね。やはり、そこにある意味においての祝福の意を表してもらえれるような雰囲気の中にでなければです、ね。あれがああ言うても、こうする、といったような、言わば喧嘩ごしのような中にですね。椛目が誕生、新たな誕生をです、したというのでは、本当なことではない。例えばその真っ暗な中に、五燭光が一つ点いただけでも、おぼろげ、大体の事は分かるはずだと。
 そういうその五燭光的な光ではあるけれども、一切にポットこう明かりが点いた。そうしたら、椛目のところで、これではちょっと暗いからというて、百燭光のような大きな電気が、椛目だけがとりかえられるところを頂いた」。昨夜の御理解の中に、丁度御祈念をさせて頂くちょっと前に文雄さんと後の先生が、まぁこれが最終的な図面だろうと図面を作成される堀尾さんも、まあ熱心な作とでも申しましょうか。
 自分でもよう、こんなに出来たと、思われるような感じ。委員長である秋永先生が、もう、何枚も書いても、何枚書いても気に入らなかった。これは親先生喜んで頂けれるような図面が出来たから、大体今日でも、良かったんですけれども、昨日、あちらは、秋永先生のところでは お月次祭ですから、今日でもお月次祭前に、みんなに披露する前に、まずお届けに行って親先生に聞いて頂こうというて、昨日参りました。
 そうしたら、もう実にもう、一見しただけで、素晴らしいなぁと思うんです。あそこに掲げてございますから、後からご覧下さい。ね。ところがです、ね、やっぱそれだけ、立派になれば立派になったで、坪数も建坪も増えておりますけれども、予算の方も大変多くなっておる。まぁ、これこそ、夢のような、これが成就するのは夢のようなことだろうと、こう、思われるようなことなんだけれども。
 しかし神様の働きを持ってすればですね、そのことを夕べその図面をあちらに、お供えさして貰ってお届けをさして頂よりましたらね、こう開けずにこう開けと頂きました。例えていうならば襖をこう開けますね、こう開けた所でね。一間の襖をこう開けた所で半間だけしか開かないでしょうが。だからこう開けと押して開けと。そうしたら一間のとこなら一間の間がパーッとこう、向こうへ押し倒すようなですね開け方だと。
 そうしたら、向こうから青い、ずっと、いわゆる、青空天井とでも言うですか、そういうような、その開けるところが、を頂くんですね。三代金光様にある先生がです、大変な難儀な問題をお届けされてですね、「金光様どんなもんでございましょうか。お上げになりましょうか」と言うてお伺いされた。そうしたら、金光様がですね、「はい、あちらは開けっぱなしでございます」と、仰ったそうです、ね。
 「もうあちらは開けっぱなし」「こちらの信心如何だ」と、こう言う。ね。例えば「こう開けずにこう開けろ」と、こう押して開けよという、押すことにおいてもう、一同のものの力が、要求されておることは知らなければいけないと思うですたいね。そうでしょうが皆さん。今朝から頂きますそれにおいてもそうです。ここにどうでも大きな光を頂かなければならんのでしょうが。光といい、力といい、ね。
 とても、とても皆さんの我力でから出来ることではないです。ね。ためには、先ず、光を頂かなければならんのであり、力を受けなければならんのだという。まず何と言うても、信心をこうではいけないと、信心は押しぬいて。と言われております。一にも押すなら、二にも押す、三も押してするそれは、これはまだ信心が足りんからじゃ。という、それなのです。そこからおかげが受けられる年じゃ。
 とてもそげなんことは難しいか、とても夢のごたるこつと、言わずにです。そこへ向かって、焦点をおき、本気で押して押して、押しまくる信心。ね。本気で改まらせてもらおう、そのためには。神様のご無理を申し上げるからには、改まりも致します。神様に、このようなお願いをするからにはです、ね。磨きもいたします。そこから、私は光を発するような光が頂けれると私は思う。昨夜から今朝にかけて頂きます、光といい力といい。ね。愈々信心の稽古を本気でさせて頂き。しかも五人十人のものではない、ね。
 椛目にご縁を頂くそれに、例えばためにはです、お互いの信心によってです、眠っているものを起こさなければならん。向こうへ向いておるものは、こちらへ向きを直させねばならん。そういう働きになってです、お互いが手にをとっての光であり力であるおかげを、自分の身の上に信心の上に表していくために、頂かなければならんということが分かりますですね。どうぞ同じ開けるでも襖を開けるなら、こういう開け方が楽なん。そういう開け方では半分しか開かん。
 向こうへ押し倒すような開け方だったら、そこからいわば青空天井がづっとこぉ開けて眺められるようなです、向こうは開けっぱなしというおかげになり、光を頂かせて頂くと、神様の特別なお計らいによってです、そこもここも一時に同時に五燭光程度のものでは有るけれども光は灯ったと、ね。そういう神様の働きと、私どものいよいよ改まらせても頂きましょう、磨かせても頂きましょうという、そこから、椛目自体の光が、いよいよ、大きな光になっていかなければならないということを感じますですね。
   おかげを頂かせて頂きました。